Contents
- 0.1 南海トラフ地震が30年来に80%の確率で発生するであろう・・ と、国が確率を10%引き上げました。
- 0.2 この報道を知り、被害予想を調べてみました。 東日本大震災で被災後、現場で想像を絶する状況を体験して来た いち被災者として衝撃的な「背筋が凍るほど」の数字ばかりでした。
- 0.3 衝撃!南海トラフ地震が「国難といわれる所以」が理解できました。
- 0.4 シリーズ化してお届けします。
- 0.5 南海トラフ地震 こんなことが起きる その【4】
- 1 ・被災地で対応困難な入院患者 15万人
- 2 ・避難所にいる5歳未満の乳幼児 19万7千人
- 2.1 重傷者や被災医療機関からの転院患者が多数発生する一方で、被災で医師や看護師が不足する。 対応が難しい外来患者は14万人と想定。断水や停電で人工透析を受けられないことも。
- 2.2 避難所には特別なケアが必要な災害時要援護者が多数。 65歳以上の単身者22万人、要介護認定者17万6千人、 身体障害者14万2千人、精神障害者12万6千人、妊産婦8万人。
- 2.3 ※出典先:朝日新聞デジタル
- 2.4 被災地で対応困難な入院患者について・・
- 2.5 東日本大震災では、石巻エリアの病院がほとんど被災して、命の砦と言われたのが石巻赤十字病院でした。
- 2.6 石巻赤十字病院は災害拠点病院としてあらかじめ用意してあったマニュアルに従い、全職員が配置につきトリアージと治療の準備を約45分完了しました! (2014年・石巻赤十字病院にて当時の説明のセミナーを受けました)
- 2.7 津波襲来後、多くの救急患者が運び込まれ、最大で震災2日後には
- 2.8 1日1,251人もの急患が運び込まれたそうです。 病院はロビーのソファーや廊下の床も含め、運び込まれた患者と付き添いの親族らで一杯になりました。
- 2.9 実は私は当時、避難所で手をケガし、早朝に石巻赤十字病院に行ったところ、糸と針がありません・・ といわれました。震災、4 日後のことです。
- 2.10 この事態は、ただ事ではないと恐怖を覚えました。
- 2.11 とにかく、日赤病院は、映画で見た野戦病院のようでした。 外には、早朝から薬を求める方の数百人の行列!
- 2.12 いつも待合所となっているロビーの堅くて冷たい床一面にケガ人がビッシリ隙間無く人が寝かされており、 とても現代社会の光景と思えませんでした。
- 2.13 本来、石巻市では地震などの災害時、市内116の医療機関が連携して対応するはずでしたが、大津波の影響により、旧北上川河口にあった石巻市立病院をはじめとしたほぼ全ての医療機関が機能停止しました。
- 2.14 大津波の到達もなく、免震構造・自家発電や緊急時の水などを備えた石巻赤十字病院が石巻都市圏20万人を一手に背負うことになったようです。 ※ここで伝えきれない死体にまつわる話などたくさんありますが、機会があれば公開します。
- 2.15 この状況が南海トラフ地震だったら、どれだけの入院患者難民が発生するか? 想像もつきません・・。
- 2.16 避難所にいる5歳未満の乳幼児について・・
- 2.17 私も約一ヶ月の避難所生活を余儀なくされました。 そこで学んだことはたくさあります。 ※その経験を、避難所運営について等、講演でお話しています。
- 2.18 まず、避難所に認定されている学校・公民館などには災害備蓄が完備されておらず、至るところで避難所格差が生じました。
- 2.19 幸運な方はあの大惨事の中、初日から食料にありつけていますし、その逆もあります。
- 2.20 例えば、大型スーパーで被災した方は、初日からお店の食糧が配給され、食物に困ることはなかったし、衣料売り場から毛布など、寒さを凌ぐ衣類も提供されました。
- 2.21 その一方で、小さな公民館などに避難し孤立した方は、火の気は一切なし。 食糧も持ち合わせていた方のお菓子などを分け合ったり、(大人は空腹を我慢し、小さなお子さん分け与えた)しました。 中には食料が一切配給されない避難所もあったのです。
- 2.22 孤立した小さな施設、奥地ほど、物資が届くまで日数を要し、ほぼ飲まず食わずだった!という事実がありました。
- 2.23 要は避難した場所、場所で格差が生じたのです。
- 2.24 しかし、みんなで助け合って、乳飲み子からお年寄りまで必死に生きたのです。
- 2.25 私が約一ヶ月生活した避難所でも乳飲み子、寝たきりのお年寄りもおりました。 この避難所の話だけでも数時間話せてしまいます!
- 2.26 それほど高齢者た乳幼児(災害弱者)にとっては過酷な場所です。
- 3 東日本大震災の真実は、現地で聞くのが一番理解が早まります!
南海トラフ地震が30年来に80%の確率で発生するであろう・・
と、国が確率を10%引き上げました。
この報道を知り、被害予想を調べてみました。
東日本大震災で被災後、現場で想像を絶する状況を体験して来た
いち被災者として衝撃的な「背筋が凍るほど」の数字ばかりでした。
衝撃!南海トラフ地震が「国難といわれる所以」が理解できました。
シリーズ化してお届けします。
南海トラフ地震 こんなことが起きる その【4】
・被災地で対応困難な入院患者 15万人
・避難所にいる5歳未満の乳幼児 19万7千人
重傷者や被災医療機関からの転院患者が多数発生する一方で、被災で医師や看護師が不足する。
対応が難しい外来患者は14万人と想定。断水や停電で人工透析を受けられないことも。
避難所には特別なケアが必要な災害時要援護者が多数。
65歳以上の単身者22万人、要介護認定者17万6千人、
身体障害者14万2千人、精神障害者12万6千人、妊産婦8万人。
※出典先:朝日新聞デジタル
被災地で対応困難な入院患者について・・
東日本大震災では、石巻エリアの病院がほとんど被災して、命の砦と言われたのが石巻赤十字病院でした。
石巻赤十字病院は災害拠点病院としてあらかじめ用意してあったマニュアルに従い、全職員が配置につきトリアージと治療の準備を約45分完了しました!
(2014年・石巻赤十字病院にて当時の説明のセミナーを受けました)
津波襲来後、多くの救急患者が運び込まれ、最大で震災2日後には
1日1,251人もの急患が運び込まれたそうです。
病院はロビーのソファーや廊下の床も含め、運び込まれた患者と付き添いの親族らで一杯になりました。
実は私は当時、避難所で手をケガし、早朝に石巻赤十字病院に行ったところ、糸と針がありません・・
といわれました。震災、4 日後のことです。
この事態は、ただ事ではないと恐怖を覚えました。
とにかく、日赤病院は、映画で見た野戦病院のようでした。
外には、早朝から薬を求める方の数百人の行列!
いつも待合所となっているロビーの堅くて冷たい床一面にケガ人がビッシリ隙間無く人が寝かされており、
とても現代社会の光景と思えませんでした。
本来、石巻市では地震などの災害時、市内116の医療機関が連携して対応するはずでしたが、大津波の影響により、旧北上川河口にあった石巻市立病院をはじめとしたほぼ全ての医療機関が機能停止しました。
大津波の到達もなく、免震構造・自家発電や緊急時の水などを備えた石巻赤十字病院が石巻都市圏20万人を一手に背負うことになったようです。
※ここで伝えきれない死体にまつわる話などたくさんありますが、機会があれば公開します。
この状況が南海トラフ地震だったら、どれだけの入院患者難民が発生するか?
想像もつきません・・。
避難所にいる5歳未満の乳幼児について・・
私も約一ヶ月の避難所生活を余儀なくされました。
そこで学んだことはたくさあります。
※その経験を、避難所運営について等、講演でお話しています。
まず、避難所に認定されている学校・公民館などには災害備蓄が完備されておらず、至るところで避難所格差が生じました。
幸運な方はあの大惨事の中、初日から食料にありつけていますし、その逆もあります。
例えば、大型スーパーで被災した方は、初日からお店の食糧が配給され、食物に困ることはなかったし、衣料売り場から毛布など、寒さを凌ぐ衣類も提供されました。
その一方で、小さな公民館などに避難し孤立した方は、火の気は一切なし。
食糧も持ち合わせていた方のお菓子などを分け合ったり、(大人は空腹を我慢し、小さなお子さん分け与えた)しました。
中には食料が一切配給されない避難所もあったのです。
孤立した小さな施設、奥地ほど、物資が届くまで日数を要し、ほぼ飲まず食わずだった!という事実がありました。
要は避難した場所、場所で格差が生じたのです。
しかし、みんなで助け合って、乳飲み子からお年寄りまで必死に生きたのです。
私が約一ヶ月生活した避難所でも乳飲み子、寝たきりのお年寄りもおりました。
この避難所の話だけでも数時間話せてしまいます!
それほど高齢者た乳幼児(災害弱者)にとっては過酷な場所です。